青い雨

 

 

 

 雨が降っている。
ざあ、と音を立てて降るそれは、一瞬にして街を包み込んでいた。しかし雲は出ておらず雨が降るには似つかわしくない空模様だ。少し傾きかけた太陽は、雨が降る前と変わることなく夏の日差しを送っている。雨が降るにつれ街は青く染まっていく。そんな雨を降らせる空も、同じように青色をしている。その青を吐き出すかのように雨は降っていた。

 

        ■

 

 俺は校舎から出たところでようやく外が雨だという事に気がついた。音を立てて降っているそれになぜ気が付かなかったのだろうと少し自分に苦笑し、鞄に入れていた折り畳み傘を取り出す。カバーを鞄のポケットに入れていると、
「あ、先生今帰り?早くね?」
傘を開けつつ校舎から出てくるのは受け持ったクラスの男子生徒だ。肩に傘をかけた彼に俺は、
「教育実習なんてこんなもん…ってのは嘘だけど、今日はちょっと野暮用が」
「へーえ。なに?彼女?」
違うよ、と苦笑で返せば、彼は屋根の下から出て、少し勢いを増した雨の中に立つ。
「だろーと思った。先生彼女いなさそうだし」
「え、なにそれ失礼な」
しかし実際に居ないものは居ないのでそれ以上の否定はできない。早く帰れ、と手を払えば軽い挨拶を一つ残し雨の中を軽い足取りで歩いていった。彼の後姿を見つつ、そこそこな豪雨なのに元気なものだ、そう思う。自分は天気が雨だというだけで外に出る元気をなくすのに、と。
 はあ、と一つ溜息をついて自分も屋根の下から出れば、雨が傘に打ち付ける振動が手に伝わってくる。それだけ雨は勢いよく降っているのか、そう思いつつ足を向けるのはさっきの男子生徒が向かったほうとは逆の方向だ。正門はこちらなのだが、この学校はグラウンドを通って学校の敷地内から出ることも出来る。そちらから帰るほうが家に近い生徒の大半はその道を使っていた。
「(部活やってるときに通るとすごい邪魔者扱いされるよなあ)」
思い返すのは自分が学生だったころだ。俺は家から一番近いこの高校に通っていて、グラウンドを通る道を使っていた。特に部活に入っているという訳でもなかったので、それこそグラウンドを通るのは部活のテンションが上がり始めた頃になる。実習初日に、今住んでいるのはそちらでは無いにもかかわらず癖でグラウンドの方へ行った時は相変わらずの気まずさだった。しかも方向を間違えていることに気が付いて道を引き返したときの生徒の目が凄く冷たい。なにしてんだこいつ、と。
「あ、先生さよならー」
「ああ、うん。さよなら」
すれ違う女子生徒に手を振りつつ校門を抜ける。正直に言ってしまうと女子高生って癒しだなあ、だが出来る限り心に秘めておかねばならない思いだ。社会的に抹殺されかねないので。
「(まだ危険思想じゃないよな…?余裕、余裕)」
そんな自分の思考に苦笑しつつ、思いだしたのは姪のことだ。この高校ではなく、一般的に考えて大層賢くいらっしゃる高校に通う列記とした女子高生だ。そういえば彼女は、今日傘を持って家を出ただろうか?自分のほうが早く家を出たので確認するすべは無い。朝は普通に晴れていたことを思うと、十中八九持っていることは無いだろう。
「(…また濡れ鼠になって期限悪く帰ってくるのか…)」
その相手をするのは自分だ。ご機嫌とりにケーキでも買って帰ったほうが良いだろうか。
はあ、と本日二度目になる溜息をつく。彼女起きにいりのケーキ屋は家を少し過ぎた所だ。わざわざ雨の中余分な道を歩くのには気が引けたが、それ以上に面倒くさい事と引き換えなので仕方ないだろう。

 

        ■

 

「ざあ、と雨の音だけが聞こえている。他の音は聞こえてこない。視界にももはや雨しか入っていない。目に入った雨が視界を青く変えるが、それを心地よいとすら思う。ふふ、と思わず笑みを浮かべてしまうのは雨が全身に染み込んでいくような錯覚を覚えたからだ。既に制服のシャツは真っ青になっているし、色が黒のため青くはなっていないスカートは確実に重みを増している。自分の状態を再確認した私は、空に向かって手を上げる。勢いのいい雨を降らせている割には空は完璧に晴れている。雨の向こう側にいる太陽が眩しいな、少しそう思った」
……くすぐったい。
「雨は遠慮などせずにこちらを打つ。ふと空を見上げるのを止め校舎の方を見れば、グラウンドを囲んで立っているフェンスの向こうには白い壁の校舎が有る。一昨年に立て替えられたその校舎は、今や青い絵の具をぶちまけられたかのように青くなっている。壊されずに残った、数少ない木造の旧校舎(今現在は実技教室棟として使用されている)は、乾いた木の色が水を吸って濃くなっている。おそらくあの校舎だけでなく、この地域一帯に住む木々や植物はこの水を吸っているのだろう」
うらやましい。
もし私が植物なら、
「もしも水を大地から吸収して糧と出来る生き物だったなら、そう思う。確かこの雨が有害なのか無害なのかはまだ判明していない。各国、突如始まったこの自然現象に対して研究の矛先を向けているらしいのだが、何かによって青く着色された水が降ってきている、としか分からないらしい。政府からは出来る限り青い雨には触れないように、という警告が出た。しかし、いっそ自主的に水を浴びて自分で有害か無害かを確かめたほうが手っ取り早い気がしないでもない。いや、この雨に触れたい。ただそれだけだった」
…………ん。
「もう一度空を見て、口に入ってきた水を飲む。それはこんなにも雨が降っているのにも関わらず少ない量で、少し物足りなく感じる」
溶けそうだなあ…。
「このまま、グラウンドに水溜りとして染み込み切れずにいる青い水たちと一緒に、水溜りになってそのまま時が経つにつれて砂に染み込んでいきそうだ。なんて素敵なことだろう。きっとそうなるにはまだ染み込んだ水の量が足りない。雨に全てを預けるように目をつぶれば、すぐに平衡感覚は失われた。ふらり、と体が揺れた気がしたが、目を閉じているので自分がどれだけ揺れていたのかは分からない。もはや立っているのが億劫になって私は泥になりつつ有るグラウンドに膝を付き、そのまま座りこんだ」
さあ
「そして愛の言葉を口にする」
私を染めなさい。

 

        ■

 

 始めて彼女を見かけたのは雨が青くなってから直ぐの事だった。
雨が濡らした彼女のシャツはぴったりとその白い肌に張り付いて身体の形を分かりやすく現していてグラウンドの真ん中で彼女が一体何をしているのかは皆目見当が付かないのだけれどその風景はどうしようもなく扇情的で俺の胸を高ぶらせてくそ一体彼女は何をしているんだそんなところで雨に濡れるがまま身を任せて服を肌に張りつかせてその薄紅色の肌は白い制服にうっすらと透けていてしかし雨が降りかかるせいでその肌はまるで死人のように青白く染まっていて俺は一体どうすればいいこの傘を差し出せばいいのかだけど彼女はなんであんなにも恍惚の表情を浮かべているんだ俺は、
「なん、だ…?」
その時はただただ彼女に対してどういったアプローチをしたものかいやむしろアプローチなんぞ掛けるべきか否かで数分悩んだ挙句姉から理不尽なパシリ命令を携帯で出されたのでやむを得ずその葛藤は意識の奥底にしまい込み姉への不平不満及び罵詈雑言を浴びせかけるために脳のメモリを使わざるを得なくなったそんな苦い記憶だそれも違う物を買って帰ってしまい買い直させられる苦い思いでつき。
「あの娘…また居るし」
しかしそんな俺の苦い記憶などはどうでもよくそんな事を思い返すよりも現状を把握しなければならないだろうと脳の使い道について自分自身を糾弾してみるが言ってしまえばそれも若干無駄な行為でまあ俺は帰路につこうと二ヶ月前から学校に置きっ放しにしてあった傘をもち校舎から出てたまたま見かけた先生にちょっかいをかけそのままグラウンド横を通り家へ帰るはずなのだがそのグラウンドで彼女を再び見かけてしまっていたのだ。
「………………」
あの時と違うのは彼女が向こうを向いてしまっていて表情が見えないということ唯一つでいやその点が気になっている俺は彼女の表情が見たいのだろうか分からない分からないが表情が見えないとなるとただただ心配になるというか彼女は大丈夫なのだろうかこの前と同じようにシャツは青く染まりきってしまっていてその長い黒髪もスカートも水を吸ってとても重たそうで遠くからみても華奢そうなその身体に降りしきる雨は強すぎるだろうそれでも彼女は恍惚の表情を浮かべているんだろうか。
「(……関わらないのが、一番良い選択なんだろうけど)」
出来れば穏便に人生を送りたい俺は逸脱した人間とはそこそこの距離を保っておきたい派なのだが確実にあの娘は普通の女子高生というわけではないだろう不通の女子高生はグラウンドの真ん中に立ち尽くして雨を一身に浴びたりしないし自分の鞄だって泥の中に無造作に置いたりしない筈もしかして俺の認識間違ってる?間違ってるのか?いや高々二〇にも満たない人生経験だがこの判断は正しいだろうそうである事を願うしかし、
「……あ」
ぼうっと眺めていた彼女はいきなり膝を突いたかと思うと泥の中に座り込んでしかし視線はそのまま空を向いていて相も変わらずシャツは身体に張り付いて真っ青で細い腕は身体を支えるように泥に手を突き脚はもはや泥にまみれていて遠くから見ていると一体化しているようで大丈夫なのだろうか座り込んだということはなにか体調が悪いのではないのか思わず足を彼女の方に向けようと思った時突如彼女は身体をひねって空を向きつつ地面に倒れこんだ。
「…っ!」
それを見た俺は傘を捨てて走り出している。

 

        ■

 

 かちゃ、と音を立てて絵皿を洗う。

「あれ…見間違いか…?」
「ん、どうした?」
「いや、さっきまでグランドに誰か立ってた気がしたんだけどな…居なくなってる。気のせいか?」
「そりゃあお前いきなり居なくなってるってんなら気のせいじゃねえの?」
「いきなりかどうかは分からないって。別にずっと外を見ていた訳じゃない」
「ふーん、ま、そうだよな。そんな事してたらお前の作業がこの時間に終わってる訳がねえ」
「なんか癪に障るな…」
「それこそ気のせいだっての。はは、気にすんなよ」

へえ、と適当に相槌を打ち洗い終わった皿を拭く。

「しっかしここの窓薄汚れてんなあ」
「まあ、ほとんど記念品状態で残された旧校舎だから仕方無いだろう」
「記念品には記念品の扱いってもんが有るだろうによ」
「結局は実技棟だしな。美術とか技術とか…むしろ校舎が傷みそうなものなのに」
「やっぱ新品の校舎汚されたくなかったんじゃねえのー?お前なんか汚すの筆頭じゃん」

これとかな、と彼が見るのは若干青い色が残っている木床だ。

「く…、こんなこと滅多にしないと何度言えば」
「まあ絵皿しょっちゅう割ってたらもったいないわなー」
「お前、馬鹿にしてるだろ?」
「俺どじっこスキーじゃねえからなあー別に萌えねえし」
「くたばれ」
「いって!脛とかお前、脛とか…!」

だまれ、と言いつつ今日描き終えた絵を見る。

「まあ、完成したところでこの雨脚じゃ帰るに帰れないな」
「そーだなあ。この青いやつ前ぶり無く降るから嫌だよなあ」
「気象庁も、空がいつもより青く感じたら気をつけろ、としか言わなかったしな」
「あいつら各自に判断を任せすぎだろ!もうちょっとなんか無いのかよ」
「今後の発見に期待、ってやつだな」

がた、と絵をイーゼルから下ろし部屋の隅に立てかける。

「そもそも異常気象にしても異常の度合いが半端無いことになってるよな」
「ほんとそれな!なんかいきなり青い雨が降りますってなんだよ一体」
「しかも意外とみんな受け入れているしな」
「順応性は高いほうが楽ってことだな」

くく、と笑う彼の横にある椅子を引っ張って座り、机においてあるパックのジュースを手に取る。

「ん。ぬる…」
「そりゃそうだろお前、買ってから何時間経ったと思ってんだよ」
「そうだな。昼に買って…それからずっと飲みながら描いてたからな」
「早く終わったかと思いきやただ始める時間が早かっただけ、ってな」
「今日に限っては遅めで良かったんだがな…やむ気配がないぞ、この雨」
「だっるいなー。昨日新作のゲーム買ったばっかだってのに」
「じゃあ濡鼠になって帰れよ」
「それが嫌だからここにいるんじゃねえか!このまえ制服真っ青にして帰ったら母ちゃんが怒る怒る」
「だろうな…あ、色って落ちたのか?」
「おう、そこそこ。白いのと比べりゃあ青く見えるけど大した事ねえよ」

へえ、と呟き、俺は窓の外を眺める。
さっきよりも、少しだけだが雨脚が和らいでいる様な気がした。

 

        ■

「ああもう!!」
家の玄関が開く音と罵声の声、ついで水音と湿った足音が響く。
居間の方から、おかえり、という声が投げかけられもするがその声が聞き入れられる事は無い。
「いきなりなんで降ってくるのよ!私が家に着くまで待ちなさいよ。
 なんなの、駅に着いたところで狙いすましたみたいに!ああ腹立つ!!」
高いところから雫が連続して落ちる音、ずぶぬれになった衣擦れの音もなっている。その音は床が濡れる事も厭わず家の奥へ。どさ、と鞄が投げ捨てられる音がするが、それすらも水を含んだ音になっている。
少し立て付けの悪くなってきた風呂への戸を荒々しい音を起てつつ開け、同じような音を立てて閉める。青い水を吸えるだけ吸った制服を洗濯機に叩き込み、シャワーの水音を風呂場に響かせる。
うわ、と呟いたのは、思ったよりも髪が水を吸っていたからだ。排水溝へと流れていく水は青く染まっている。その水が透明になるまで頭から水をかぶって、流れていく音を聞く。それを聞いていたら少しばかり怒りが収まっていく。自然現象にここまで起こり散らすのはいかがなものか、と彼女は思った。次いで、そこまで考えられるなら大丈夫か、とも思った彼女はシャワーを止め、風呂場に響いていた水音を止める。その音が無くなれば後は彼女から滴る水音だけが風呂場に響き、彼女が出て行くことでその音も止まる。
ふわ、と音無くバスタオルにくるまった彼女はそこで立ち尽くし、
「……着替え持って無いじゃん」
そう呟いた。その呟きと共に脱衣所に響くのはノックの音。それに、なによと怒鳴り返せば、遠慮がちの声で、ケーキ有るけど…という言葉が返ってくる。その空気を読まない声に対し苛立ちを感じながら、
「食べる!食べるけどその前にリビングに帰れ!そんで出てこないで!」
なにやら戸惑ったような声が聞こえてくるがどうでもいい。自分から水音が響かなくなったことを確認した彼女は、リビングへと戻って行ったであろう足音を聞き、着替えを取りに行くべく、再び戸をけたたましい音を立てて開いた。

 

        ■

 徐々に空は正常な色を取り戻しつつ有る。
目を疑うほどに青い色をその身に纏わせていた空は、今は特に注目する程でもない空色だ。
ざ、と音がする。
街を青く染めていた音だ。
その音も和らぎ、そろそろ気にならない程度になるだろう。
空が不純物を流し出すのを終えた。

 

 

 

 

 

 

2010.08

 

 

 

 

 

 

 

 

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